いつでもiPhoneを遠くに投げ飛ばすくらいの暴力性は私の中にあるのだなと思った

夜勤終わりに家の最寄駅のパチ屋の喫煙所でタバコを吸う。馬鹿げたオレンジ色の壁を一匹の蟻が這い一瞬火種を押し付けてやろうかと考えたが「そんなことするかバカ」と思い消して家に向かう

甲州街道沿いに咲いている紫陽花は気付けば少しずつ色づいていて春が過ぎ去った事を知った真ん中に宝石を持ったリラシナがある中華料理屋さん、コピー用紙に一文字ずつ印刷されたテイクアウトのラミネートがきちんとハトメに結束バンドで結ばれていて、私はそういうところにぐっと来ています

りぼんのてほどき

こないだは寂しいとかほざいてたけど、花粉よりギリあったかくて嬉しいが勝ってる。目覚めるときふにゃふにゃする。今日は寒いね。

相変わらずカネコアヤノを聴いている、

出来るだけ髪の毛を綺麗に梳かす

誰もわからなくて良い

という歌詞がとても好きで、そんな気持ちでマニキュアを塗ったりしている。カネコアヤノを聴くことは、抱きしめる行為と似ている。かと思うと急に突き放したり走り出したりしていってしまうので、結局素直な女の子は可愛いね。最近は弱さ/素直さ/優しさ/誠実さみたいなことばっかり考えているけれど、まぁ結局答えはわからず悶々としている。

私が手に入れたい「素直さ」は、私の世界では「弱さ」とされていてどうもうまく折り合いがつかない。泥だらけでぐずぐずになって、縺れた足で走って行く人を本当に私はかっこいいと思う。美しいと思う。憧れのすぐ裏には妬みがいて、そういうやつらともちゃんと向き合っていかなければならないのがむずがゆいところ。恥や、これがないと思ってたプライドなのだろうか。妬み僻み、寂しさや切なさはずっと自分について回る影なので、最近は手を取り合って歩いていけたらいいねと思っている。

過ぎ去って行った現象に対して、例えば感情や存在や空間の「在った」という事実だけが救いになっていることがある。その時どんな気持ちで誰と何をしていたのかとか全部覚えていなくても、たしかに私はそのように「在った」ということだけの救い。ああなんて情けなくて脆い柱。私だけが信じられる柱。

去年の冬がどんな風に寒かったのか今じゃ思い出せないみたいに、わからなくなっていくことがたくさんあるなあ。

年明けてから最近ずっと 小袋成彬 - Piercing を聴いている。もうほとんど寒さも和らいで冬も過ぎれば寂しい。ずっとそんな気分だなと思いながら生活している。多分来年も、息が白くなった頃に喜んでは寒さを嘆き、暖かくなってきた頃少し寂しくなる。へんなの。同じ車両の誰かがニベアを塗っていてその匂いで優しさを知る夜明け

彗星

年が明けた。家で年越しを迎えるのはほんとうにいつぶりだろう。正月の、なんとなく幸せに満ちて緩みきった街が好きだ。京都の正月は帰省する学生が多くて本当に静かだった。東京は、いつまでたっても人が多いなと他人事みたいに思う。大晦日仕事から帰って家のドアを開けるとき、ふとそう思った。

2019年思い返せば春先くらいまでつらかったようだけど、いろんなことがスッと腑に落ちることが多かった。素直に認められるようになったのかもしれない。(わからない。)

初めてフジロックに行った。内容を覚えることが苦手なので(事実は調べたら出てくるし)、放棄しているんだけど 25歳の時に初めてフジに遊びに行って、ありえん土砂降りの中友達とデスキャブを見たことは一生忘れないんだろうなと感じた。こういう風に、音楽を聴いていて自分の区切りとしたくなる瞬間はたまにある。贅沢な三日間だった。

音楽も映画も鑑賞したものは多くはないけど通勤時間で本を読むことが増えて、したがってあまりラジオは聞かなくなってしまった。別にそれで良いと思う。私は、私の触れるすべてのものでふちどって形成されていて、その内側で何を思うかっていうのが大事なんだなと年々強く思う。愛するもので成り立っている私は自分のことが好きだと思えるし、それはとても恵まれていて素敵なことだ。みんなありがとう!

今年はどんな年にしたいかなあ。具体的にクリエイトなことを言えば、つぐみとZINEを出す。文章を書く。動かす。ひさしぶりにイベントも打ちたいな。自分を大事にする。もっとちゃんと素直になりたいし、そろそろレディーにも憧れる。しっかりこちらに向き合ってくれる人を大切にする。まあ年末にはどうなってるかわかんないけど、今みたいな気持ちだったらいいなと思う。2019年いい年だった。

そういえば初めてカネコアヤノを聴いたんだ。

美味しいものを食べな できる限り遊びな 恋をしな 結わいた髪の毛が乱れるまでゆけ

2020テーマソングにします 今年もよろしゅうね!

 

CHIIO / ODDITIA

CHIIOの新しいアルバムが出た。

私はいま仕事終わりにタクシーから降りて歩いている途中聴いていて、なんとなく家に帰りたくなくて家の目の前の公園に座ってしばらくぼうっとしている。実家にいたら、近くの堤防に寝転んで聴いているんだろうなと、懐かしくて優しい気持ちになる。

お気に入りのタオルケットや動物園で買ってもらったシャチのぬいぐるみ、子供の頃に大事だったものを思い出した。はじめて夜に一人で自販機までコーラを買いに行ったこと(自販機まで行く途中、駐車場の横に小さな廃病院がありその傍の電灯が怖かった)、海からあがった時のシャワーの柔らかさやエアコンにあたって眠りに落ちていく気持ち良さ。

私はいま単に懐かしんでいるのではなく、子供の頃持っていた好奇心を感じているのだと思う。誰にも意思決定される前の気持ち。きっとそれは彼らが持っている好奇心や探究心を私に分け与えてくれたのだろう。

たお君が本当に良いものができたかもしれない、と笑顔で話してくれた時すごく嬉しくなって、ずっと楽しみにしていた。遠出の前の日みたいに心待ちにしていた。本当にいいよ。

眠るときにビー玉を二燭に透かして作った小惑星や、撫でられた暖かな手を想う。もし深海や宇宙で音が聴こえたなら、CHIIOの音楽がいい。

必要になればいつだって僕に電話をかけて

ひさしぶりに(という程ひさしぶりでもないけど)伊藤くんと少し電話して、作った音源が届いた。ほとんど毎日遊んでいたからいつもみたいに会えなくなって寂しいけど、音源を聴いて変わらず彼がそこで優しく過ごしていることに嬉しく思えた。あまり意識して聴いたことないけど音楽はいつでもその人の声が聴こえるんだなと、当たり前だけど。離れた時を過ごした中で相手のことを思えるのはとても幸せなことだと思う。私は最近読み終えたばかりの本をお勧めする。冒頭だけでいいから読んでと、もっとたくさん話したい話があるし、いつもみたいにどうでもいいようなくだらない話もしたい。暖かくなってれば良いなと期待を込めて春先というが、春先に会えるのが楽しみ。出来るだけ健やかに穏やかにいて欲しい。

こないだは京都の友達のライブを見に行く。みんなと出会ってなかったらずっと人見知りだったかもしれないし、遊び方を知らないまま過ごす週末の夜は確実にもっと退屈だっただろう。それぞれの声や話したことを考えながら彼らのブログを読むのも好きだった。思い出すのはいつだってメトロの深夜3時だ。

そうやっていろんなことを考える、変わってしまった環境も状況も、懐かしんでばかりいられないけどという自分の不甲斐なさも。

昨日はシャムキャッツの新木場コーストにいって、大好きなものは変わらないしそれを共有できる友達がたくさんまわりにいることはとても幸せだと思った。あかねがシャムキャッツを私におすすめしてくれて一緒に見に行ったライブとか、一人で金沢へ観に行った事とか思い出してジーンとなる。たからじまから渚やNo.5などをやっていて本当にワクワクした、し、間違いなく疑いもなくシャムキャッツはパンクバンドだ!と思った

その夜も調布に行って、関西の友達と遊ぶ。ドラムサポートやん、知らん人やわあと思ってたら一番古くから知ってる友達で笑えた。クロスが長く続いて、街から愛される場所になれば良いな。

12月は忙しくて、というか そんなに変わらないんだろうけど遊びに行く時間があまりなくて気がつけば年末か〜と思ってしまう。全部かっさらって行くようで少し心細い。昨日ははじめてグレムリンを見た、クリスマスの映画たくさん見ようかな。職場の同じセクション内で遂にインフルエンザ患者が出た、絶対に風邪をひきたくない。あったかくして寝よ。

もうずっと加筆しては下書きに保存し続けているけど、期限もきまってへんから短くても撮って出しみたいに更新する方が性に合っているみたい。短かったらツイッターでいいやんと思ってしまうけど、誰にも届けたかったりシェアするような事でもないし。会って話してくだらん感じがいいな。大事な人は少なくて良い。(と、思えるようになったのも私の変化であるけど、これはまた会った時に話します。とおもう)