あまり消極的で悲観的なものいいにならないよう気をつけているところがあって(精神ギャルなので)自分の良い状態を保つにはそれが良かれと思って疑わなかったのだけど案外そんな小さい制約で自分の首を絞めているのかもしれない

だからと言って不平不満を言葉にして心配や慰めの言葉をかけてもらうことがあると そうじゃないんだけどなぁと心が少し死ぬ これは私が悪いです

本人に意図があるなしに関係なく、私に向けられたものでなくとも 微量でも悪意に触れると悲しくなって疲れてしまう けど、同じだけ前よりも優しさとかにも敏感になったように思う

べつにだからといってどうでもないのだけどなァ というようなことばかり 雑記

友達から「昼寝から目覚めたら夕方で窓から月が見えて最高で、ちゃんみくもこの気候好きそうと思って会いたくなった」という旨の嬉しい連絡がきて会うことになった 準備をして外に出て「あーそうそう、そうだよね、やっぱ私この気候すきだ」と思ってサニーデイ・サービスのMUGENを再生したら冬のいりぐちのような風と私をよく知った音楽のせいで一気に最高の「状態」になった。そうか、私はよく最高!って言っちゃうけど感情じゃなくてあらゆる私が私として体験する状態・状況の事なのか!と完全にわかった時の覚え書き。

吉祥寺についていせやの焼き鳥を食べて、歩いて井の頭公園へ行って一番かっこいい木を教えてもらって西荻に向かい雑な中華屋で飲んだ日のこと

6月4日 11:03

素直でいることが、必ずしも正しいわけじゃないって解ってはいるんですよ、解ってはいるんですけどねぇ これは私のちっぽけな反抗心なのかもしれない、反抗という事にしておいてよ

別に何があったわけでもないけどさ

まだまだ私にも思いやりが足らんよ

ぽんぽん咲きはじめた紫陽花に「えらいねぇ、えらいねぇ」とおもう。もう六月です。

FEELIN'FELLOWS

わたしは映画でも音楽でも小説でも、鑑賞していて自分の生活や周りのことを思い出すものが自分の中でいいものと定義しているところがあるし、そのために鑑賞しているといっても過言ではないくらい思い出たちを愛している。(だからいつまでたっても内容が覚えられない。)

FEELIN'FELLOWSでわたしはいろんな事を思い出していた。

ミツメのエスパー(ド名曲です)を聴いているときは地元の海辺を思い出すし、A LONG DAY をかけながら家事をする気持ち良さを、CD貸してくれた友達を、カジヒデキを聴いているときは SONGBIRD COFFEE のチーズケーキをちびちびと大切に食べると一等美味しい事を思い出していた。
小西さんのDJでは、毎週のように遊びに行っていた京都METROにいる気分だった!あの暗い空間で何人の人と出会っただろう。年齢も性別も国籍も関係なく汗だくになりながら踊ったフロアを、ロッカーのとこに座り込んで友達と話したことを、目にしみるほど鮮やかで眩しい鴨川の水面を朝日を、踊り疲れて助けを求めるように歩いて向かう早起亭うどんの優しさを。実際にはいつも酔っ払っているのでやっぱり全然覚えてない日の方が多いんだけど。

いままで自分の選んできたものを肯定できる瞬間があるのってなんて幸せなんだろう。DJを聴きながら、京都にいて、メトロにいて良かったなと思った。

同じように、下北沢THREEがあって良かったなと思う。なんというか、表現があっているかわからないけど そこにいる人たちからはちゃんと 自分たちの遊び場を愛して、守って、カルチャーを育てていこうという気概を感じる。残念ながら現代社会においてそうたくさんいない「かっこいい大人」がちゃんといてくれる。だからいつでも安心して、地下の赤くて重いドアをするりと開けることができる。(本当はまだ少しだけ緊張するけど、ドアを開けてしまえばこっちのもん。好きな音楽が聴こえる。)

そんな気持ちでリキッドルームへ行った。きっと楽しいんだろうなって。過去と今や、愛する生活とカルチャーが地続きであることをしっかりと感じられたし、そこにいる人たちの笑顔を見て嬉しくなった。

 

毎日仕事がつらくても、全部うまくいかなくても 重い二重扉を開けると 流れ星がきらめくうちに一瞬で朝になってしまうような こんなにも眩しい夜があることを知っているんだから。ヒットチャートにも素敵な音楽があふれて、かっこいい大人がたくさんいる未来がいいよね。それを実現するのはわたしたちである。そんなことを考えながら電車に乗って夜勤。週末になればわたしはまた、きっとお気に入りの服を着て 心弾ませながら下北沢へ向かうのだ。

モヤットボールみたいな実

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小学生の頃、通学路にモヤットボールみたいな実がなる木があって、どんなんやっけなぁと「とげとげ 実 木」とかで調べたけど出てくる植物は知らんやつばっか、「モヤットボール」まで打ったところで「モヤットボールみたいな実」とサジェストされ「これはもしや」と調べたらビンゴ。コノテガシワというヒノキ科の植物らしい。地面からぽっくり生えていて、そうそうこんな感じ。友達に「全部とげをとって水に浸けとくとビー玉になるよ」とわけわからん嘘を言われた事を、そしてそれを信じて爪を青くしながらとげをとり水に浸けた事を思い出したのでした。(もちろんビー玉にはならんかった。)年々、植物が好きになる。なんでおばあちゃんは花好きなんか理解出来なかったけど、私もガーデニングババァになる日はそう遠くない。

愛がなんだ

愛がなんだ、公開前から好きな監督の作品だったのでかなりたのしみにしていたのだけど 思ってた以上に喰らってしまい。終わった後の観客の「てか好きの次元違うのヤバくない?」とか話してる声も嫌で、別に苦しい恋愛した覚えもないけどお前らに解ってたまるかよ、と思いながら席を立ってすぐにイヤホンをした。聴いてたステラドネリーで余計堪える。

テルコの気持ちも守の気持ちも葉子も仲原もすみれさんも、わかりすぎて痛かった。誰も悪くない。私は誰でもないけど誰の立場にでもなりうるし ありふれた若者の話 テルコのまっすぐな素直さも故のずるさも、守の無神経さも 自分に正直だからであって 恋愛においては他人の言葉むなしく 自分が想う気持ちしか信じるところがなくて テルコの立場になればテルコが正しいし 守の立場になれば守が正しい。全部全部愛おしくて誰も1ミリも間違ってなくて まったく愛がなんだ、愛がなんなんだって感じだった。

私が相手に対して愛だと思っていることが相手にとっては重りだったり 一生わかり合うこと無いと わかりながらも 諦めず願う微かな希望こそが愛だ、できる事なら一緒に、あなたが幸せな人生を歩めますようにと想うことが愛だと思いましたがどうですか?最後の方なんかもう画面を見ずにこうしてぼんやり考え事をしてしまっていた。いろんな考えが巡る映画はいい映画だ(と、思ってる)。

あなたは何を、誰を想い浮かべましたか。

 

出演者みんな、取り立てて岸井ゆきのさんの表情がとても良くて。あああかん、そんな顔すんな、あかんよ、と何回も思っちゃった。守が選ぶ居酒屋とか、テルコの家のインスタントラーメンのストックとか、仲原の力無い笑顔とか、全部リアルだった。そう思うと葉子だけ嘘みたいだったな、なんか。

いちもじでも間違えば崩れ落ちるパズルみたいなあの関係性の湿気を帯びたリアルさは、今泉監督が描いてくれて良かったな、となんとなく思う。

 

私はテルコみたいに誰かを愛することは出来ないな 純粋なまっすぐさが残酷。恋愛のエゴの部分というか、好きという気持ちの灰汁が出まくっていた。でも恋愛ってそういうもんだったかー、と今は恋愛という事象に対して関与することなくただ通り過ぎるしかなかった。新宿まで歩くあいだ 連絡したい男の子の1人も浮かばなくて悲しい気持ちになる。

失恋してももちろん変わらず夜が朝になってお腹はすいて生活は続く。その当たり前の生活と、永遠にも感じられる甘い時間は共存しないのはなんでなんだろうね。 サッドティー観たくなった。

6:09 帰宅

夜勤明け会社出てから寒さに刺されて泣きそうになることもなくなった。こうやって冬が春になるように、少しずつ色んなことを失くしては思い出す。学生時代よく聞いていた音楽は今聞けば少し聴こえ方が違ったりして無駄に響く。こんな毎日があと何年続くのって嫌になったりするけどきらめく夜を思い出して超えて行ける。

超えて行く事でしか更新できないのを知っている私たちは、苦虫噛み潰しながらそれでも楽しい明日を夢見ていようね。